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第24回愛教組教育改革拡大学習会では、名古屋大学大学院教授の今津孝次郎さんをお招きし、いじめ問題が大きな社会問題となっているなか、その克服にむけて、わたくしたち一人ひとりが、いじめ「認識」を変えていく必要があるといった学習を深めました。
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最近のいじめというのは半ば恐喝になっていると感じます。普通いじめというのは、お金ではなくて、のけ者にするのが通例です。邪魔者扱いをする、あるいは全員で無視をするなど排除するというのがいじめの実態なのですが、90年代に入ってから恐喝が増えているのです。恐喝をするためには、仲間をのけ者にしてはできませんから、抱え込んで、遊び仲間の中に入れ込み、いたぶり続けます。そういったいじめを、私は「拘束」のいじめと名づけているのです。もちろん、排除のいじめもありますが、もう一方で全く新しい形のいじめが増えています。つまり、外から見ていると友だちのようにしか見えない。しかし、中に入るとまさに地獄です。抱え込まれた子どもは、顔では笑っているけれども、心の中では大泣きに泣いているのです。抱え込まれて、いたぶりを受け続けているわけですから、逃れられないわけです。一見、遊び仲間が遊んでいるようにしか見えないけれども、そこでは完全に恐喝が行われているのです。
それからもう一つ、私の定義の主旨の中で強調するのは、最近増えている携帯電話やインターネット上のいじめです。昨年の秋、日本でいじめが大変な議論になっているときに、アメリカの研究者からメールをいただきました。その中の、日本とアメリカのいじめの比較において、「サイバーブリング」という章がありました。これを私は「電脳空間のいじめ」と訳したのですが、これがどうやらアメリカで大きな問題になっているらしいのです。携帯電話やインターネットによって、ある特定の子どもに対して、いじめや嫌がらせをするというハラスメントがアメリカでも話題になっているようでした。現在では、日本でもかなり深刻な問題になっていますが携帯電話を使った、あるいはインターネットを媒介にしたいじめについては、すさまじい威力をもたらします。被害者にとっても今までのいじめの比ではありません。実際に、小学生や中学生など多くの子どもたちが携帯電話を持っているわけですから、このような形のいじめについては今後ますます増えるのではないかと危惧をしています。 |
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学校にいじめがあってはならないという考え方が根強くあります。しかし現実的に、子どもというのはいじめる存在なのです。いじめはあってはならないと思うと、逆にいじめがあったらそれを隠そうとすることになります。これまでも日本の学校はいじめをずっと隠し続けてきたところがあります。それは、わざと隠したのではなくて、学校にいじめはあってはならないという気持ちが強すぎるからです。隠すために、あとでマスコミが騒ぎたて、収拾がつかなくなってしまうのです。
学校にいじめはつきものです。また、子どもの世界にいじめはつきものです。学校には善も悪も存在するというように、いじめもつきものであると受け止めていく必要があるのではないでしょうか。また、いじめの「根絶」などとよく言われますが、これを目標にすると、先生方は大変です。私はこの表現を変えて、いじめの「克服」でいいのではないかと思います。いじめを早く見つけて、それを子どもたちにも呼びかけて、みんなで一緒になって克服していくことが大切だと思います。
したがって文科省が掲げている「いじめ件数の半減」といった方針は、必ず隠ぺいをもたらします。数値目標はやめて、各学校が「いじめ克服件数の倍増」にむけて努力する。そうすれば、みんな正しく報告できます。
それから、今日お集まりのみなさんは、本当に優秀で、中堅の先生方が大多数のようにお見受けしますが、ともすれば落とし穴に陥る可能性があります。いじめの問題を担任が一人で解決しようとする。そのようなことは、できるわけがありません。担任一人でどうして解決できるのでしょうか。私は、担任が自分一人では解決できないとはっきり自覚できたときに、はじめて教員に力がつくと思います。そうなると、まずは学年で手を組む、そして全校の教員で手を組むというように、全校あげた取り組みにつながっていきます。 |
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最後に一つの提案を申し上げたいと思います。それは、子どもや保護者とともに「反いじめ憲章」をつくるべきであるということです。ある私立の中学校から呼ばれまして、いじめについてのお話をさせていただく機会がありました。その中学校の校長先生から、一枚の資料が渡されました。ちょっと紹介します。
「先生たちは、どんないじめや悪ふざけも許しません。いじめは絶対許すことのできない、野蛮で卑劣な行為です。いかなる理由があってもいじめが認められたときには先生たちは絶対に許しません。ところがいじめをしている本人が、そのことに気づいていない場合があります。時には相手にも悪いところがあるのだから、いじめられても仕方がないと思っている人がいます。しかしそれはたいへんな間違いです」というように続いていくわけです。私はこれを見たときに、日ごろからいじめ問題に正面から向き合っている中学校であると感じたわけですが、一つ注文をつけました。
「校長先生、この文章を、先生たちはではなくて、子どもたち、そして保護者を主語にした文章をつくられてはいかかでしょうか」
この文章はあくまで先生が子どもたちに対するメッセージとしてつくられたものなのです。そうではなくて、いじめは全校で乗り越えていくべき、克服すべき課題としてとらえるためにも、子どもや保護者が主体にならないといけないと思ったからです。
もし、お集まりの先生方の中で、自分の学校でやってみたいと思われた方が見えましたら、どうか私までお知らせをいただきたいのです。何らかの形で私も参加させていただきます。
決して、できあがった文章が重要ということではありません。いずれにしても時間がかかることだと思います。つまり、まずは教員集団の中で原案を固めてから、子どもたちに問題提起をして、さらに保護者にも加わってもらいますから。それを全校、全体でまとめていくのには、労力が必要であると思います。
本日は、いじめ「認識」を変えようというテーマで話をいたしましたが、とにかくいじめ問題について、さまざまな角度から考えていかなければ正しいことが見えてきません。根絶という言葉でよいのか、数値目標でよいのかといったことに疑問をもって考えていくことが大切です。できれば、教員集団、そして可能な限り子どもや保護者を巻き込んで、学校全体でいじめについての理解と対応を考えていくことが、いじめ問題の克服にむけて必要なことではないでしょうか。
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