子どもたちの健やかな成長を

私たちはどう生きるか -子どもたちの「ゆたかな学び」をデザインする-    〈 第68次教育研究愛知県集会 特別集会 〉

2018/10/27

 特別集会では、早稲田大学教育・総合科学学術院教授の菊地栄治さんから、ご講演いただきました。
 菊池さんからは、「子どもたちの健やかな成長をめざして 私たちはどう生きるか-子どもたちの『ゆたかな学び』をデザインする-」と題してお話をいただきました。本集会を通して、子どもたちの健やかな成長のために必要な、「ゆたかな学び」にむけた教育活動の重要性を改めて確認することができました。

 

記念講演:  子どもたちの健やかな成長をめざして
          私たちはどう生きるか-子どもたちの「ゆたかな学び」をデザインする-
講   師:早稲田大学教育・総合科学学術院教授 菊地 栄治さん

                        記念講演をする菊地栄治さんトリミング

 

今の時代に向き合う視点

 まずはじめに、基本的なこととして、どのようにこの時代に向き合っていけばよいかということを中心にお話をしたいと思います。わたくしは、これから紹介させていただく2つの社会現象に注目しています。1つめは1937年に、現在と時代状況が似ている困難な時代を生きる少年にむけて、書かれた社会学小説についてです。吉野源三郎さんの「君たちはどう生きるか」。吉野源三郎さんはジャーナリストであり、敏腕編集者でもありました。当時彼は、子どもたちの未来を非常に憂いており、未来に希望がもてるようなメッセージを考えていこうと書かれたのがこの作品です。このタイトルは、宮崎駿さんが制作中の長編アニメ映画のタイトルにも選ばれています。わたくしは、この作品が今の時代にどんなふうに生きていけばよいかという1つの物差しになるような本であると考えています。
 この本には、「コペル君」という少年が出てきます。少年がいろいろな事に気付いていくことに対して、彼の叔父が「それはすごくよいところに気付いたね」「ここはこうした方がよかったんじゃないか」などの言葉をかけます。厳しい言葉も含めて、少年とかかわっているところが、すごいものだと感じました。この小説には、2つの鍵があり、1つは「人類の進歩」です。人類の進歩にとって今、それぞれがやっていることはどのような意味があるか、非常に大きい物差しでとらえています。さまざまな形で、それぞれの国が利害を主張し合うことを、歴史上繰り返しており、今またそういう傾向が強くなっていますが、人類という大きなくくりでとらえたときに、それは本当にやってよいことなのか、あるいはこうした方がよいのではないかという1つの大事な物差しというのが、人類というカテゴリーです。人類の進歩にとって、どのように貢献できるかということを考えてほしいということを強くメッセージとして打ち出しています。もう1つは「立派な人間」です。わたくしたちは、よかれと思って勉強ができる子とか、何々ができる子というものに、こだわってしまう傾向があります。しかし、一番大事なことは何ができるか、できないかは別にして、立派に生きていく人間になってほしいということです。すごく大きな視点ではありますが、とても大事だと思います。立派に見える人間は多くいますが、本当に立派な人間にはなかなかなれない。しかし、それにチャレンジしていこうというところが、ある種の美意識だと思います。それを忘れないで生きてほしいという思いが打ち出されているのだと思います。
 「コペル君」はあるとき、人が動いている様子を見て「人って分子みたいだな」と言います。自分は1人で生きていると自己中心的に、自分軸でしかものを見ていなかったけれども、外から俯瞰すると、人はやはり何かによってつながって生きていて、支え合って生きているということに彼は気付くわけです。そういう視点の転換が、この小説が書かれた頃と同じように、はかられなければならない、そんな時代に直面していると考えます。
 小説の中で「僕はすべての人が互いによい友だちであるような、そういう世の中がこなければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行き着くだろうと思います。そして僕はそれに役立つような人間になりたいと思います」と書かれています。最初の、「すべての人が互いによい友だち」の部分では、みなが幸せになるような、そんな社会であってほしいということが書かれています。そして、人類というカテゴリーで考えたときに、これまで進歩してきたことやその進歩を支えるような、それに貢献できるような人間になりたいという決意が書かれているのです。
 そこに至るまでには、うまくいかないことも当然あるのですが、うまくいかないという経験の機会を取り除くこともよくないのかもしれません。転んだときに、大人がどのように手を差し伸べて、どのような声かけをするかということが重要だということを言っているように思います。

 

揺さぶられる関係 

 それからもう1つ、これも時代を映している「この世界の片隅に」という映画、こうの史代さんという漫画家の作品です。1940年頃の呉のある場所で、「北条すず」という人物の日常世界が淡々と描かれており、そこに戦争がおこるという映画です。この映画は、日常の生活を当事者の目線でていねいに描いています。社会科学系の研究者は、自分の理論が正しいという話になりがちなのですが、大事なのは、日常を生きている当事者の人たちの目線に立つということです。そのような目線でもう一度、どう見えているかということを考えていこうと、そのような人たちの声に耳を傾けていこうということです。主体というものは、関係性の中で大事にされながら言葉を発することで得られます。何もしないまま自然に主体になるわけではなく、関係性の中で主体が浮き上がって育っていくということだと思います。
 それから、世界を重ねることが、今とても難しくなっています。生きている世界が違う。若者はネット社会に生きており、中高年の世代はそうではないという場合があります。あるいは考え方が違うとか、これはいつの世にもあります。「他人事≒自分事」と、わたくしは表現していますが、これが究極の人間のテーマではないかと思っています。つまり自分と他人は違う。違うけれど、できごとを媒介にして、それを重ね合い、互いにすべては理解しきれないけれど、近づこうとする、それが対話です。わたくしは、互いにコミュニケーションを通して考えが変わったり、違う見方を発見したりと何か影響を与え合うような関係を「揺さぶられる関係」と呼んでいます。対話しているようで、ただ記号としての言葉がやり取りされているだけでは対話とは言えません。対話というのは「互いに」心を揺さぶられることです。子どもは揺さぶられる対象で大人が揺さぶる主体、これは対話ではありません。大人も揺さぶられる、子どもの発言を聞いて「自分はここが見えていなかった」と思い、自分もまた変えていく、そういう経験、関係性のあり方が対話的な関係であるとわたくしは考えています。
 また、人間には至らないことが多くあります。至らないことを抱えている、闇も抱えている。そんな中で、ともすると、今の世の中は直線的に考えがちです。こうすればこうなる、こう勉強すれば、こういう立派な人間になれる、お金が儲かるなど、そういう短絡的・直線的な思考ではなく、失敗しながら転びながら深まっていくのが思考だと思います。単純によいことばかり考え、よいことばかりイメージして、そこにむかっていくのではなく、経験を通して、人間がさまざまな面をもっていることに気付くということが重要であると思います。
 さて、この2つの社会現象は何を物語っているかと言うと、1つは時代を超えた人類としての難題にわたくしたちは常に向き合っていかなければいけないということを教えてくれていると思います。2つめは、わかったつもりになるということが、ある意味文明病であって、非常に危険なことだということにも気付かせてくれます。現在は、学びの根本に立ち返るということが必要になっている時代です。大人の側の決めつけ、それを問い直すということが必要な、そのような時代です。このようなことを抜かした学びというのは、どれだけ一生懸命細かく文字をたくさん書いても、未来のその本人には全然残っていきません。情報として、頭に入れられますが、全然残っていきません。大事なことは、その人が本当に意味があるということに気付くというような、そういう財産を一人ひとりに残していくということです。情報をたくさん用意しても、今は、インターネットにアクセスすればいくらでも手に入るものなので、あまり意味がありません。それよりも、もう少し冷静に、類としての人間に、何が大事かということを、もう一度考えてみる必要があるということだと思います。この2つの作品は、そのことに気付くヒントとなると思います。 

 

現在の学びのとらえ 

 今の社会の中での教育について、教育は文化であると常々考えています。教育は政治のおもちゃでも、経済の道具でも、何でもありません。教育は文化そのものです。文化、表現形態。そう考えたときに、経済がこうだから、教育はこうあるべきだというのは、筋違いだと思いますし、政治がこうだからそれに従ってというのも違うと思います。教育は一人ひとりの大切な表現のありようです。そのような意味で、教育の位置づけを考えてみる必要があります。先ほど紹介した「君たちはどう生きるか」の世界と、「この世界の片隅に」という作品から80年経ちました。本当に人類は進歩したと言えるのかというのは、非常に心許ないところがあります。土台であるものの見方や考え方がしっかりとつくれないまま、高い建物を築こうと焦っているように思います。この危うさ自体を俯瞰できるような道具立てが学びではないかと思います。社会づくりの基盤、そして社会の形成者を育てるという側面も必要です。しかし、それよりむしろ学び合い、育ち合った、その先に社会が結果的につくられていく、未完のプロセスを一緒に若い人たちとつくっているという、そういうイメージで教育をとらえてはどうかということです。
 わたくしたちは後期近代の中にいて、個人もやはり自分を常に改めながら、自己更新をしていかないといけないと錯覚させられている時代です。同様に、社会も常に更新していかなければならないと考えられています。これはギデンズの考え方ですが、ジョック・ヤングの考え方でとらえると、また違った姿が見えてきます。それは、他者化がどんどんすすんでいく、強い個人をつくろうと努力していく、社会を発展させるために強い個人をつくっていこうとしているのですが、それによって、分断されていくという、そういう自己矛盾に陥っているというのが、特徴であると思います。このような視点から、学習指導要領のベースになった中教審答申の考え方を見てみると、「正解のない問いに向き合う」とあります。まず一番重要なメッセージはここだと思います。しかし、このカリキュラムをめぐる留意点として、一元的で単純化された現状認識から出発した議論であるというところがあります。現実社会、子どもたちが抱えている状況は、貧困であり、生きにくさがあります。貧困というのは経済的な状況だけでなく、困っている状態が、とても広がっていて、それは、ある特定の人たちに集中しているところがあります。新学習指導要領には互いに異なる背景も大事にしなさいとは書いてありますが、しかし、それも単なるカテゴリーになっています。また、個人の資質・能力をのばすことはとても重要ではあるのですが、そこにあまりにも焦点化されると、互いに学校で学んでいることの意義が希薄化するおそれもあります。そして、浅い人間観、世界観にもとづいて、競争に敗北するという不安をどんどん煽っているという状況があります。そうすると、不安を解消するための学びという、非常に後ろ向きな設定になってしまいます。また、これからは、学校で学ぶとは一体どのようなことかを、問われる時代になると思います。「ITでやれる」「ネットで動画を見て、勉強はできる」というようにです。しかし、それでもやはり、学校はすごいところだとわたくしは思っています。一緒に学ぶということの意味はとても大きいです。なぜ一緒に学んでいるのかということを、今一度考え直してみる必要があり、それを形にしていくことがカリキュラムをつくる上でも必要だと思います。それから、教員や子どもたち自身が学校づくりの主体として動かないと、先ほどのような自己矛盾をはらんだ悪循環に陥ってしまうということにも注意が必要です。

  

対話が生まれる学び

 それから、アクティブラーニングです。今、世の中では、アクティブラーニングでなければ授業でないというような、変な空気がつくられているように思います。今までの実践も、十分アクティブラーニングと呼べるものはたくさんありました。それを振り返っていくということが必要です。学びの単元ごとに各教科で対応できるので、おそらくアクティブラーニングは浸透しやすいし、あるいは入試と一貫させながらすすめるという方針であり、広がっていくこととは思います。ただ、課題としては、リアルな社会を子どもたちが経験しているかという点です。総合的な学習の時間の授業は確かに、今、軽視されていますが、当時は、リアルな社会と出会わせるということを、試みようとしていました。異質な他者と出会って、自身が揺さぶられていく経験を捨て去るところに深さはないだろうと思います。そして、わかったつもりになるという危うさだけが残ってしまうのではないかと考えています。
 評価の留意点もここで紹介しますが、ベースはやはり直線的・機械論的な世界観にもとづいているのではないかということです。ある高校で、ルーブリックを利用した取り組みがされていました。そこに通う1人の生徒が「わたくしはこうではないことも思いついたり、そうではないことを大事にしたい」と言いました。ルーブリックの観点上にはないところに、大切な子どもの発想がありますが、わたくしたちは、その物差しで子どもの成長を見なければいけないという思考に逆転してしまいがちです。違う事例が出てきたときに、それをよりよい形で授業に取り込んでいくのが、まさにいい授業のつくり方なのですが、それができなくなってしまいます。先生方は忙しいので、すっきりした方が受け入れやすいんですね。でもそれは、まんまと今の時代の罠にはまっているのではないかということです。「見える化」というのは対話をうながすツールです。「見える化」をするから脳の認知過程が外側に出される。外に出てくるから、対話が始まっていくわけです。対話が生まれてくるところに一番重要な意味があるはずなのです。しかし、それが従来的な発想だと、個人の力をどうやってのばすかというような話になって、話題から外れてしまう。それはとても怖いことです。

  

新しい取り組みからの示唆

 新しい取り組みを時代を先取りして実践していた学校があります。わたくしが、20年余りかかわらせていただいている大阪府立松原高等学校です。この学校を少し紹介しながら、深めていきたいと思います。なぜ、高校かといいますと、小・中学校で取り組んできたことが高校ではこのようにつながるという、イメージをもっていただきたいからです。これは、アクティブラーニングなどの議論以前に、子どもたちの現実と真剣に向き合って、地域も含めて、どのように学びをつくっていけばよいかということを真剣に考えて行ってきた取り組みです。
 松原高校は1996年に総合学科ができました。そして、「産業社会と人間」と、「課題研究」という学習があり、子どもたちは、そこで大きく成長しました。さらに、優しい力という概念をつくって、みんなで共通のビジョンをもって取り組んできました。これらはすべて、学校側が生徒に何ができるかということを中心に考えて、向き合って、ずっと育んできたものです。リアルな学びとして、「課題研究」などで、具体的に生きている人たちの声を聞きながら、自分たちの学びを深めていくという取り組みになっています。それから、「しんどさ」を切り捨てない仲間づくりです。これは、今の時代では忘れられがちなことですが、「みんなの課題なので、『しんどい』ことを1人に背負わせるのではなく、一緒に考えていく」というスタイルです。『しんどい』子を中心に学校をつくっていく。社会を本当に、どのような人もみんなで一緒に生きていくものにするのであれば小・中学校のみならず、高校、大学においても、そういう形でなければおかしいはずです。また、そこでご尽力されていた方は「『しんどい』教員、家で介護しているとか、子育てで保育所に行かなければいけないとか、そういう教員を他の教員が具体的にサポートする関係、それがあったから、何とかやっていけた。それがなかったらたぶん潰れていた。それが一番大事なところだった」と振り返っています。
 そして、一番重要なのは実践的な背景です。日本には事業所での体験学習など、さまざまな実践的なものをベースにした取り組みがあると思います。おそらくみなさんの周りにもそれに近いものはあるし、そのような学校かどうかで分けるのではなくて、授業の中でもあり得ると思います。そのような取り組みは、今まで当たり前に行われてきた実践と、新しく生まれてきた実践を対話させ、さらに、自分の中の理論と新しく築いた理論を対話させて、その中から生まれてきたものだと思います。そのようにしてできてきた実践があるにもかかわらず、教育改革というと、こんな人間にならなければいけない、こんな人間に育てようと国がいってきます。それに従って、各自治体へおろされていく。各学校はそれに従って、本当に真面目にそれを実行していきます。最後は教員も個人評価されます。生徒も個人評価されます。どこまでやったかをチェックされるという形の客体なのです。主体的学びといいながら、客体であるという矛盾があります。そうではなく、これまで述べてきたように、人間というのはさまざまなできないことがあるわけです。それから、社会は常に正しいわけではありません。間違っている部分もあります。そういうことを前提にしながら学んでいくということが、これからの時代、それこそ答えのない問いと向き合うと言うのであれば必要となります。また、そのようなプロセス、総合的に主体が変容するようなプロセス、主体が客体に落とされるのではなく、主体どうしが出会って、変わっていく、というプロセスが重要ではないかということを、実践に学ばせていただきながら、わたくしは「主体」「相互的(なかかわり)」「変容」という3つの要素を中心にして理論にしています。基本は、人と人が出会う、他人事と自分事を重ねるということであると思います。

 

おわりに

 最後にいくつかお伝えしたいと思います。1つは、わたくしたちはどうしても「力をまずつけなさい」「そうすると活動ができるようになる」「そうすれば意味もわかるようになる」この方向性で考えてしまいがちです。家庭教育の上でも陥りがちなところですが、意味がわかるようになるために「力をつけなさい」「だから今がんばりなさい」と言ってしまいます。大学生も同じです。「就活のために、コミュニケーション能力をつけないと将来大変だから」と、がんばってやっているのですが、これは、大体違うと思います。本当は意味が先にくるべきです。その人にとって意味あることが見つかれば、自然に活動していきます。その活動の結果、力がついてくるということです。これからの教育改革の方向が、子どもたちが何が大事かということを考える力をつけたり、活動をすることの意味を見つけたりするための取り組みであってほしいと思います。それを許すような余裕が人を育てていくと思います。子どもの時間を大事にしようということです。子どもの時間、本当はもっと自由な時間があったのに、直線的な時間で組み立てて、大人が、どんどん奪っていくわけです。そうすると自由な発想はどんどん失われていきます。仲間との関係も薄くなっていくということです。それから、わたくしが言い続けてきたことで、ゼミの学生が互いに世代を超えて共感できる言葉がようやく見つかりました。先ほど紹介した、「他人事≒自分事」です。他人と自分は、基本的に人として尊敬し合う関係であるけれど、違う存在です。子どもであれ、教員であれ。けれど、それを互いに重ね合って、揺さぶり合いながら、自分も変えながら、互いに成長していくということを、人類は大事にしてきました。それを見失わないように、学びをデザインしていく必要があると思います。
 

カテゴリー:子どもたちの健やかな成長を, 教育研究愛知県集会<特別集会>, 更新情報    

このページの先頭へ↑