第60次教育研究愛知県集会は台風のため中止となりました
2010/10/30
第60次教育研究愛知県集会は台風のため中止となりました。
カテゴリー:教育研究愛知県集会<特別集会>, 子どもたちの健やかな成長を
2010/10/30
第60次教育研究愛知県集会は台風のため中止となりました。
カテゴリー:教育研究愛知県集会<特別集会>, 子どもたちの健やかな成長を
2010/10/09
愛教組は、保護者と教員約270人の参加のもと「愛知母と女性教師の会」を開催しました。女性部提案と講演の後、5つの分散会にわかれて「自分らしく生きるとは」「子どものために親として大人としてできることは」などについて話し合いました。
小学校6年生の実践では、「自分らしさを大切に、互いのよさを認め合い前向きに生活できる子をめざして」をテーマに、自分らしさを生かしたボランティア活動を通して、前向きに行動する喜びを味わい、自分に自信をもてるようになった姿が報告されました。
中学校3年生の実践では、「自分らしさを大切にし、男女がともに生きる社会生活を営もうとする子をめざして」をテーマに、男女共同の育児について話し合う活動や進路指導を通して、自分らしい生き方について考え、互いを尊重しながら生活する大切さに気付いていく姿が報告されました。
網膜色素変性症の患者は、日本には約5万人いると言われています。2000人から3000人に1人の割合ですから、珍しい病気ではありません。
わたくしの目はしっかり開いており、目に動きもあるため、周りから「目が不自由な人には見えない」と言われ続けてきました。以前はもう少し見えていましたが、今はほとんど見えていません。
みなさんの中には「目が不自由=まったく見えない人」と想像する方が多くみえるのではないかと思います。しかし、実は視力0(ゼロ)と0.01の間には三段階あります。指数弁といって、目の前にある指の数を数えられるかどうか、手動弁といって、目の前で手を振られて見えるかどうか、そして、光覚弁といって、光が見えるかどうかの三段階です。わたくしは、今、指数弁と手動弁の辺りだと思っています。ということは、まったく目が見えていないわけではない、視力ゼロではない、ということを理解していただきたいのです。
わたくしは携帯電話でメールも読みます。黒い背景に白い文字であれば、ずいぶん読みやすくなります。視力はかなり落ちており、視野もかなり狭いため、一文字読むのにとても時間がかかります。しかし、まだ目が見えるということが、とてもうれしいのです。「まだ見える」と思える、貴重な瞬間なのです。ところが、これが誤解を生んで「あの人、盲導犬連れているのに携帯いじっているよ」というような声が聞こえてくることがあります。
いつか自分の目が見えなくなることはわかっています。それが2年後か、もしかしたら、運よく10年後も目が見えているかもしれません。しかし、確実に病気が進行していることはわかります。だからこそ、あるとき「今読まなきゃ、今見なきゃ、今見えるものを見なきゃ」と思ったのです。それ以降、周りからいろいろな声が聞こえてきても「こういう人もいますよ」と気にしないようにしています。
「メモリー」という曲は留学中に、本格的に勉強した曲ですが、わたくし自身にとっても、ターニングポイントになった曲です。英語の発音に関して、わたくしの場合は、鏡に映る口の形、舌の位置などはよく確認できません。だから「普通に努力している人にはかなわないんじゃないか」と心の中で思っていたところがありました。しかし、声楽の先生に「もっと上をめざしましょう。あなたにはできるから」と言われたのです。そして、先生が一つ一つ事細かに言葉で説明してくれたんです。すると、本当に手に取るかのように、英語の発音の仕方がわかるようになって、実際に発音してみると、出したいと思った音が出るようになりました。「わたくしにもできるんだ」と本当に感動しました。それまでも、わたくし自身は、ずっとずっと努力してきたつもりだし、できることは自分でしたいと思っていましたが、おそらく心の中で、知らない間に「ここまでかな」とリミットをつくっていたのです。そうやって自分で壁をつくるのは、もうやめようと思いました。やはり、その先にたどり着きたいと思えば着けるし、それを可能にしてくれる人がいるということ、そういう人に出会えたということで、ずいぶん道が開けたような気がしました。
アメリカに行き、充実した音大生活を送ってはいましたが、病気の進行は止まらず、ますます目が見えなくなっていきました。そして、ついに、自分の生きがいであった自筆で楽譜を書くということすらできなくなりました。ここで諦めるべきかどうかとても悩みました。
そんなとき、アメリカ人の友人に「あなたがすべきことは、あなたが今、何ができて何ができないのかを自分で理解すること。そして、一番大切にすべきことは、自分が何をしたいのかを、周りの人たちに自分の言葉で伝えることだよ。わたくしたちはその言葉を待ってるんだよ」と言われたのです。もやもやとしたものが、一気に晴れていくような気がしました。
「星から降る金」。この金というのは、チャンスという意味です。モーツァルトの才能を高く評価していた男爵婦人が、モーツァルトのことを手放そうとしない父レオポルトに対して、あるおとぎ話を例えに「子どもを旅立たせてあげなさい」と語りかけているという内容です。
わたくしが今、自分らしくいられるのは、自分を信じて自分がしたいと思ったことを貫いているから、そして、それを寛大に受け止めてくれている周りの人たちがいるからだと思っています。
子どもたちに対しても「自分で壁をつくらずに、自分を信じて、がんばっていけば大丈夫だよ」と言ってあげれば、きっと夢にむかって前向きに努力していくのではないかなと思います。
講演する前川裕美さん
女性部提案や講演を受けて、5つの分散会にわかれ、「自分らしく生きるとは」「子どもたちのために親としてできることは」などについて話し合いました。
分散会での話し合いの後、意見交換をしながら得たことや思ったことを「これから私は!宣言」としてまとめました。いくつかを紹介します。
最後に、アピール採択委員により、集会アピールが読みあげられ、採択されました。 この集会アピール文を、11月に県教育長に提出しました。
「愛知母と女性教師の会」は、「わが子・教え子を再び戦場に送るな」のスローガンのもと、子どもたちの明るい未来と健やかな成長を願って、半世紀にわたり、話し合いを続けてきました。
子どもたちは無限の可能性を秘めています。わたくしたち親と教師の願いは、子どもたちが未来に夢や希望をもち、瞳を輝かせて生きることです。しかし、現代社会の中では、人間関係が希薄になってきており、孤独を感じたり、自分に自信をもてなかったりする子どもたちが少なくありません。また、子どもたちだけでなく、多くの親や教師が心に悩みや不安を抱えて生活しているのです。
子どもも大人も、自分のよさをみつけ、自分らしく輝きながら生きることが大切です。お互いを認め合い、それぞれのよさを生かしながら支え合う、やさしい社会をつくっていかなければなりません。
子どもたちは目の前の大人の姿を通して、将来を見つめています。だからこそ、子どもたちがより多くの人々とつながり、信頼し合い、ともに生きていくことができるよう、わたくしたち大人が手をとり合い、支え合っていこうではありませんか。子どもたちの健やかな成長を願い、すべての大人が力を合わせて子どもたちを育んでいきましょう。
語り合いましょう
子どもたちが生きる 未来の姿を
育んでいきましょう
いきいきと 自分らしく生きる力を
築いていきましょう
人と人とが手をつなぎ合い、お互いを認め合うことのできる社会を
21世紀をになう子どもたちのために、人と人とが心を結び合い、ともに生きる社会を実現していくことをここに誓います。
2010年10月9日
第57回 愛知母と女性教師の会
2010/08/21
愛教組は、県内養護教員と単組(支部)の女性部長の参加のもと、愛教組女性部養護教員研究集会を開催しました。「子どもの心とからだの健やかな成長をめざして-心を結ぶコミュニケーションのとり方を学ぶことを通して-」をテーマに基調提案・意見発表・講演を行い、学習を深めました。
本年度は、106校が複数配置になっています。子どもたちの健康問題が多様化するなか、一人ひとりへのきめ細かな対応が望まれています。子どもたちのため、複数配置の拡大と既配置校の継続保障を求めていきます。
また、妊娠した養護教員の健康診断実施に係る負担軽減措置については、妊娠した養護教員の半数近くがこの制度を活用することができました。今後も、円滑な行使にむけたさらなる情宣と校内体制づくりについて働きかけていくとともに、母体保護と職務の円滑な遂行のために養護教員の職務の特性に応じた条件整備が必要であるという考えのもと、制度の拡充について引き続き検討していきます。
オランダの教育学者、ランゲフェルトは「人は、教育されなければならない動物である」と言っている。若い母親と話していると、子どもは生まれた時から善悪の判断ができる、生きる能力をきちんと身につけていると思い込んでいる人が多いと感じることがある。しかし、子どもは胎内でそんな教育を受けてはいない。子どもというのは、本来教育されなければ人間の子どもにはなれないのである。
幼い子どもが、親や大人たちから愛情を注いでもらいたがるというのは理解されやすい。しかし、十代、思春期に入った子どもも幼い子どもと同様に愛情を注いでもらいたがっている。むしろ、思春期に入った子どもの方が、精神的な愛情や情緒的なサポートを求めている。ただ、それを伝えることを隠したがる。愛情を求めていると伝えることが照れくさかったり、躊躇したりしてしまうのである。そのため親は、「何を考えているか分からない」「少しも話をしてくれない」という状況になり、心を結ぶことができなくなっていく。
このように、思春期に入った子どもに自己表現させるのはとても難しいが、決してあきらめてはいけない。子どもから反応がなくても聞いていないのではない。身体表現から見えなくても、子どもたちはきちんと聞いている。思春期特有の子どもの表情を読むことが重要である。
子どもと心を結ぶコミュニケーションを取るときのポイントを紹介する。
虐待をした母親の口から「しつけとしてやった」という言葉を聞くことがある。しかし、しつけとは「自己コントロールを教えること」であり「大人の世界や社会に入っていく準備をさせること」である。しつけは、動機と抑止による効果的な限界の設定とそれを守らせるシステムと考えるべきである。例えば、食事をポロポロこぼす子がいたとき、「何やってんの」と叱り、叩く。これは、しつけではない。しつけなら自己コントロールを教えるために、励ます、手本を示す、どうしてこぼしてはいけないかを教えるなど、将来の目標や希望を伝えることが必要である。
しつけのゴールをより明確に反映させるには、子ども自身の権利や責任に気付かせるとよい。ダメというよりむしろ、あなたの責任においてそれはやるべきことではないと言う方が本人の自己コントロールに繋がっていく。生活のルール、門限を守ることから、薬物、無免許運転などの違法行為についても、権利や責任という立場で大人が注意すべきことである。
穏やかな罰の与え方をわたくしたちは学ぶ必要がある。一つの方法は「あなたがやらなければ、話はしません」と宣言して無視をする。「ちょっとこの部屋で考えて」と声をかけ、自分で気持ちを静められる時間を取り、少し離れるという方法もある。さらには、叱りとばさないで「あなたがやっていることを見ると、先生、とっても辛くなるわ」といった子どもが自分を見つめ直すことができる声かけをするとよい。
心を結ぶコミュニケーションをとるためには、子どもが言っていることに耳を傾け、よく聞くことが大切である。特に子どもが発した第一声が重要だと感じている。第一声を頭に置きながら話を聞くとよい。
講演する石田まりこさん
2010/05/11
第27回愛教組教育改革拡大学習会では、千里金蘭大学教授の吉永省三さんをお招きし、講演会を開きました。子どもたちのために、学校や地域が互いに支え合うことができる社会をつくっていくことの意義について認識ができ、今後わたくしたちが取り組むべき教育改革運動の方向性について学習を深めました。
過去を振り返ると、「地域の教育力」や「地域で子どもを育てる」というのは、おおよそ3つほどの文脈が考えられます。1つ目は80年代、校内暴力で荒れ た学校への批判と同情をないまぜに、「もっと親や地域がしっかりしないと」という現実。2つ目は子どもたちが被害者となる事件や事故を通して、子どもの安 全・安心の対策を地域ぐるみで、という状況。3つ目は学校5日制の中で、子どものための社会教育や生涯学習の受け皿を地域で、というもの。こうした文脈を 通して、地域の教育力の低下を嘆く声とともに、その回復や創出が求められてきました。
そのためには福祉や教育の公的制度を地域に根差して充実させることが必要ですが、新自由主義を掲げる政府は教育制度にも市場と競争、自己責任の原則、規 制緩和を導入し、社会的格差が広がりました。そうなれば国民的統合の求心力もなくなっていくから、新自由主義は国家主義的な新保守主義とも一体化して、上 からの国民統合をすすめようとします。こうした傾向下では、皮肉にも「地域で子どもを育てる」という掛け声によって、しんどい状況にある子育て家庭の親た ちが一方的に責められたり、孤立を深めたり、という状況も生まれます。
本来、子どもたちは地域社会で多様な人々と出会い、そうして豊かに育っていきます。地域社会には、「子育ち」のためのエコシステム(生態系)としての機能があります。学校はそのエコシステムを構成する大切な要素なのです。
80年代の「学校荒廃」の時代を通して、わたくしたちは、教員の子どもたちへのかかわりは力で押さえつけるのではなく、子どもの話を聴く―『支援的な受容と共感のかかわりの大切さ』を、身をもって体験したはずです。
教育実践とは、客観的に子どもを観察・分析して、何か「手を打つ」ということではありません。まず教員が、子どもに対して願いをもつことの中で、子ども と向き合い、子どもと対話することで、めざす子ども像が見えてきます。子どもを変えようとするだけでなく、自らを変えようとする―〔つまり、子どもとの関 係性を、共同的な相互主体の関係としていく〕― その中で、学校を変えていくことができるのです。
子どもの権利条約は、子どもの最善の利益(3条)を実現していくために、大人が子どもの話を聴くこと、すなわち子どもの意見表明・参加の権利の尊重 (12条)を求めています。何が子どもの最善の利益になるのかは、子どもの発達や環境、社会の状況などにより異なるから一律には規定できません。しかし、 子どもの最善の利益にアプローチする方法については、普遍化できます。それが条約の12条「子どもの意見表明・参加の権利」です。
教員は、日々の子どもたちとのかかわりの中で、この12条を具体的に生かしていく実践者なのです。
この「子どもの話を聴く」という実践は、教員だけでなく、すべての大人に求められています。だから「地域の教育力」や「地域で子どもを育てる」というの も、地域の大人たちがさまざまに子どもの話に耳を傾けるという関係から、豊かに創出されると言えます。そうした生態系の中に学校が位置づけば、おそらく子 どもも教員も、その本来の力をさらに発揮し合う(エンパワーメント)ことができるのではないでしょうか。
たとえばフィンランドでは、教員は地域社会で尊敬される存在です。学校は午後の早い時間に終わり、その後教員は地域の人々の生涯学習の指導者(有償)と しても活躍します。そうやって専門職として、学校で子どもたちの教育に携わるとともに、地域社会にも参加し貢献しています。地域社会で、尊敬される関係性 があるのです。
日本でも、教員が専門職として地域社会に参加する中で、地域の人々とともに子どもの豊かな育ちを支援していくことができるような、そうした相互の実践を支え合う、新たな社会システムが必要となっています。